管理人より
最初のテーマ「個人宗教とは」です。
研鑽のための参考資料について
このホームページは、私の個人的な人生記録のためで、単に書籍による個人史の代わりにすぎません。したがって論文や閑話、随想、随筆などは、私の個人的な見解であり我見や妄想や思い込み、勘違いが多くあると思いますが、それも私の人生記録です。NBIAcademeの各種資料やここの論文等は、私の人生記録そのものなのです。40年以上、たった一人で収集、論考してきたものです。そして今現在もやり続けています。ただ再考や校閲をする余裕がありません。書きなぐった状態ですのでいろいろと不備があると思いますがご寛如ください。
これらの資料は、学会員のためでなく百年二百年先の創価学会研究者のためです。公表された史実と異なるところがありますが、気にしないでください。学会員さんは、公式に学会が発表された年譜や資料、書籍を研鑽する方が良いと思います。
私なりの正史と真実を残して置きたいという執念とその原動力となったのは、44年前の池田先生の指導音源の消去という暴挙が、私の目の前で行われたことにあります。音源数2501本、残された音源数は673本です。広宣流布の途上に起きた焚書事件ともいうべきこの事実を末法万年まで残しておきたい。先生の音源は爆弾を抱えているようなものだという秋谷副会長の指示で、山崎副会長・木村部長が進め、青木・柳原副会長が消去する音源を選択し、古賀資料室長中心に資料室のメンバーが聖教新聞社の応接室で消去を実行したのです。この時、私が取材した大部分の音源が消去されたのです。広布の途上において自分の無力の故に大切なものを失ってしまった無念さと後悔は、私の心に大きな傷跡として刻まれてしまいました。
音源消去に反対した私は、その後秋谷、野崎両氏によって何度も人事異動が行われ飼い殺しのような状態におかれたのです。だからと言って偉くなろうという権力志向、出世欲、名誉欲、支配欲、承認欲求、自己顕示欲などはまったくありませんでした。使命があるなら必ずそれなりの立場になれると単純に思い込んでいたからです。現実には私にそんな使命などなかったのかもしれません。使命と言う言葉は、成し遂げた人、成功者の自慢話に使う言葉なのだと思い知らされたのです。
16歳の時に起きたケネディ大統領暗殺事件をきっかけに私は創価学会の広宣流布運動に関わってきました。大学は1968年1月、無期限ストライキを決行。1968年10月に発生した新左翼による新宿暴動事件。翌年の1969年1月19日まで続く、長い大学封鎖の事態を招いたのです。そして全学闘争に発展。医学部のストライキは1968年6月15日、大学のシンボルでもある安田講堂を占拠。総長の大河内一男は同17日、機動隊に出動を要請して、学生を排除しました。また1969年1月、依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断、1月16日警視庁に正式に機動隊による大学構内のバリケード撤去を要請したのです。1月19日午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開されました。2日目も全共闘学生の激しい抵抗はありましたが午後3時50分、突入した隊員が三階大講堂を制圧し午後5時46分屋上で最後まで暴力的手段をとり抵抗していた全共闘学生90人を検挙。安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収しました。私の兄は学内新聞の発行者であったので警察に追われて逃げまくったそうだ。私が21歳から22歳の時です。そして1970年に三島由紀夫が割腹自殺するという事件がおきました。
私は21歳の時から男子部の記録班活動として池田会長の音声記録に関わってきました。24歳の時に大手電機メーカーの研究室を退職して正式に本部職員になることができました。
その翌年の1972年(昭和47年)2月19日から2月28日、「浅間山荘」において連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件がありました。全共闘最後の世代として青春時代を過ごし、学生運動の総決算ともいえるこれらの事件を横目で見ながら池田会長の音声記録にすべてを捧げていったのです。椅子に座らせ針金で縛り付けての拷問のような査問をする左翼思想家たちの暴力革命、非合法の狂気に比べて池田会長の革命は、文字通りの無血革命の推進であり前進、躍進でありました。
先生はご自身の指導を「広宣流布の音聲」である。「末法万年まで留めよ」と云われ、そのご指導を色紙に書き留めて下さいました。私は、先生の音源だけでなくご指導も残せるだけ残そうと決意して、たった一人で挑戦してきました。
函館研修道場で「私の次に全国を回れ」と言われながら「周次」という雅号を頂きました。熱海研修道場では、「今日から日記を10年書きなさい。私も戸田先生から日記を書けと言われて書き始めて10年目に会長になった」と。さらに石川文化会館での記念植樹の際に、牧口・戸田両先生の植樹をされると「この横に私の植樹を君が植えるんだよ」と言われました。そして中部文化会館では先生がピアノで大楠公を弾きながら「正行だぞ、正行だぞ」と何回も言われながら「21世紀を頼むよ」と。二人だけの濃密な時間でした。
岡山文化会館の開館記念の日は中秋の名月でした。会館の屋上には先生をお向かいするためにススキを設えた設営が成されていました。空には見事な満月が光輝いていました。先生はそこで皆に和歌を創りなさいと言われたのです。私は「明鏡に似たる姿の名月よ わが師の心 いかに映すか」詠ました。先生は突然「ホトトギス・・・」と呟かれた。私はホトトギスは、秋ではなく春なのではと思ってしまったのです。先生は「ホトトギス 鳴くも鳴かぬも 己が道」と詠まれるとその後一瞬の間がありました。そして「己が道とは 己が心ぞ」と謳われたのです。さらに「真の信仰者とは 自身の人生を 自身の手で創造しゆく人のことなんだよ」と言われました。
私はこの姿勢の中に「厳しき師弟不二の生き様」があると感じました。以来数十年、ひたすら私の使命と感じていることをやり続け、今日も続けております。
沖縄指導に随行させていただきました。その時の新聞記事のタイトルを先生は「天に虹 地に名護の 友の舞」と。天は「法」地は「師」人は「友」そして「人生に大切なのは、良き師、良き法、良き檀那だよ。良き檀那とは良き友なんだ」と言われたのです。
ある月の全体会議の終了後、私は先生に呼ばれるまま後についていくと、突然先生が「副会長に成れ。やれるな」と言われました。私は返事をしませんでした。
それから先生は、私に会うたびに戸田先生のことをしきりに話してくるのです。戸田先生の話をするときは本当に嬉しそうにする先生。「戸田先生は何でも自分が一番じゃないと気が済まないんだよ。まいちゃうよ」と笑いながら話す先生。「先生も戸田先生と同じですね」と私。戸田先生の個人的な話をするときもニコニコしながら、時にはご自身で吹き出したりしながら話すのです。
先生が北海道に行かれた時に嵐慧子さんの話をされました。そして「慧子は生まれ変わって私の傍にいるんだよ。感じるんだよ」と言い、奥様に確認されました。奥様も「そう思います」と答えていました。その子が俗にいわれる「マジック事件」の子です。先生はこの子がかわいくてかわいくて仕方なかったらしいです。
また厚田墓苑を作るために行った厚田村では、戸田会長の親戚の方が経営している厚田旅館に挨拶をしに行きました。しかし全く歓迎されず、何しに来たんだという対応で、玄関先での立ち話で終わりました。旅館から出られた先生は、戸田先生の女性問題でこじれて居るんだ。しかたないよ。でも信心の上では素晴らしい先生です。間違ってはいないんだ。と残念そうに言われていました。
関西に行かれた時に「何百億も供養して、猊下から貰ったのはこれ一つだよ。感謝も無ければ激励もないんだ。冷たい人たちなんだよ。騙されちゃだめだよ」と背丈ほどもある大きな瀬戸物を前に悔しがる先生。
先生の良い所、悪い所、愚痴ったり我がまま言ったりするいたずら好きの先生。間違ったり、言い足りなかったりする事もよくある先生。「確信のある人を仏は必ず守ってくれるから」と悪戯っぽくニッコリ笑みを浮かべるそんな先生が私は大好きだったのです。
先生からの副会長の話はその後三度ほどありましたが、私は返事しませんでした。そして1977年12月28日 杉並文化会館の一室でのことです。会合の終了後、部屋に残って後片づけをしているとそこに先生がこられました。そして「第4代会長になれ!なれるか?」と聞かれたのです。私は少し驚いた表情を浮かべたと思いますが、無言で先生を見つめていました。その後私は先生と別れてトイレに行くと舘岡副会長が来られて「いま先生と何の話をしていたの?」と聞いてきたので「第4代会長に」と言うと舘岡副会長はビックリして「すごい話を・・・」としばし絶句していました。「先生は会長を辞めるつもりなのかな。こまちゃうな。そうなったら・・・」と呟いた。
その後、先生は私に会うごとに「副会長になったか?」と聞いてきました。そして54年の突然の勇退です。神奈川から本部に戻られた先生と組織センターで会った時、先生は私の目をジッと見つめながら「男なら偉くなりたいと思うのが普通なんだよ。なんで偉くなろうとしないんだ。信心が有るのか無いのか分からないよ」と言われてしまいました。私は「え!先生が分からないのでは困ります」とニコッと笑みを浮かべて応えました。
私は先生が必ず復帰することを微塵も疑ったことはありませんでした。人の良い所を模範にして真似る事は割と容易です。けれども人の悪い所を真似るのはかなりの困難さと葛藤があります。そして人間は良い所も悪い所も持ってます。両方があってその人間の真実の人格が存在するのです。私はそんな先生を人間池田大作として大好きだったのです。また、池田先生と広宣流布ごっこという仏様の遊びが大好きだったのです。だからやめられなかったのです。広宣流布は遊びではないと怒る方もいるでしょうけど仏にしてみれば遊びなのです。この世に出現した森羅三千のすべてが菩薩そのものなのですから。菩薩が仏の境涯で遊楽するのが広宣流布ごっこなのです。大好きな池田先生と過ごした日々の広宣流布ごっこは本当に楽しかったのです。
野望、野心がある人は目がぎらついているのですぐわかます。私は人様に対し羨ましいとかああなりたいとか思ったことがありません。ただ自分が信じる道を生き方をしたいだけでした。先生から「男ならどんなことをしても偉くならなくていけないんだよ」とも言われたが・・。それでも一切の野望も野心も持つことを意識して自ら拒否していました。先生から四度にわたって副会長になるよう打診されましたが、受けることが出来ませんでした。五度目は「第四代に成れるか」と問い詰められたのですが、とても受けることは出来ませんでした。
そんな私が、ある切っ掛けで、思い込んでいたことを止めることにしたのです。何を止めたのかというと、それは広宣流布です。それまでの人生は、ただ広宣流布の実現のために、自分は何を成すべきか。何が出来るのか。そのことばかりを考える日々だったのです。広宣流布について考えるのを止めてみたのです。そしたら急に様々な展望が見えて来たのです。
広宣流布という妄想を現実のものにしようと懸命なのは、池田先生お一人だけだったのです。池田先生はそのために実に様々な分野に手を打ってこられたのです。それが池田思想であり世界広宣流布の道標と方程式なのです。だからこそ広宣流布とは世界平和の異名と叫ばれたのです。